日本初の産業用ロボット 「川崎ユニメート」が残したもの

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日本初の産業用ロボット「川崎ユニメート」

日本の産業を強力に支える産業用ロボット。今でこそ、当たり前のように多くの企業で導入されていますが、普及に至るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。実は、1969年に発表された川崎重工の「川崎ユニメート」は国産初の産業用ロボット。今回の記事では、このユニメート誕生にまつわるエピソードをご紹介しましょう。

産業用ロボットは、複数の関節を持ち、それらを自由に動かすことで、溶接や、重量物の運搬などの作業を行える機械です。ティーチングやプログラミングで動き方を設定すれば、何時間でも正確に仕事をしてくれる産業用ロボットは、今やものづくりの現場において欠かせない存在になっています。その種類や仕組みについては以前紹介した記事がありますので、そちらをご参照ください。

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産業用ロボットの歴史の始まりは1950年代まで遡ります。米国の技術者、G.C.デボル氏が、単純作業の繰り返しを自動化するという産業用ロボットの基本概念を生み出し、1954年に特許を出願。そこに注目した、事業家のJ.F.エンゲルバーガー氏がベンチャー企業ユニメーション社を創業しました。ユニメートは、同社が開発した世界初の産業用ロボット。この功績により、エンゲルバーガー氏はのちに「ロボットの父」とも呼ばれています。

川崎重工は、1968年に同社と技術提携契約を締結。エンジニアを米国に派遣しての技術習得や、サンプル機を工場に取り寄せての研究を重ね、ユニメート国産化への取り組みを開始しました。そして翌年の1969年に、国産第1号機が完成。ここから、カワサキロボットの歴史が始まります。

当時、日本は高度経済成長期の真っ只中。人手不足が大きな社会問題になっていて、地方から都市部への集団就職が盛んに行われていた時代です。集団就職で上京する若手労働者は「金の卵」とも呼ばれました。

“ユニメート”という名前の由来は、「汎用能力を持つ作業仲間」です。当時のカタログを見ると、「労働者不足を解決する”新しいタイプの作業員”」とコンセプトが紹介されており、省人化・省力化に大きな期待がかけられていたことが分かります。現代の少子高齢化による人手不足は、当時と原因こそ違いますが、産業用ロボットに期待されている役割は、現在の日本と同じだったのですね。

当時の新聞に掲載されたユニメートのイラスト

自動車業界とともに活躍・発展したユニメート

ただ初代の「川崎ユニメート2000型」は、”作業仲間”としては決して満足できるものではありませんでした。重さは1.6トン、大きさは1.6×1.2×1.3mもあるのに、可搬重量はたったの12kg。しかも、それで価格は1,200万円です。当時は初任給が3万円程度の時代。現在の価値に換算すると8,000万円程で、非常に高額な装置でした。

高額で、かつ製造現場への導入の前例もなかったこのロボットに、特に大きな期待を寄せたのが自動車業界です。当時の最先端の自動車工場では、すでに専用機により一部の工程が自動化されていましたが、自動車をモデルチェンジする度に製造ラインを作り直さなければならず、時間とコストがかかるのが問題でした。しかし汎用性が高いロボットであれば、車種が変わっても動作を教え直すことですぐに対応できます。

この時期の日本では、モータリゼーションの進展により、自動車の販売が急激に拡大。一家に一台の”マイカー”が当たり前になりつつありました。生産台数を増やすためには、ロボットの導入による生産性の向上が不可欠だったのです。

そこで自動車メーカー各社がまず目を付けたのは、大量の人手が必要だったスポット溶接の自動化。1台の自動車を作るためには、平均で4,000点ものプレス部品をスポット溶接する必要があり、これを自動化できれば、大幅な効率化が期待できます。

しかし、米国の設計概念を踏襲した初代の「川崎ユニメート2000型」では、各社の要件を満たすために更なる工夫が必要でした。 川崎重工はここで、各社からの要望を取り入れ、5軸だった自由度に6軸目を追加し、可搬重量を12kgから25kgへ強化した「2630型」を独自開発。実質的に初の国産ユニメートとも言える2630型は、各社の工場に大量導入され、数年にわたってベストセラーとなりました。

このように、自動車メーカーとの協力関係が、産業用ロボットの進化を促したのです。

ユニメートの意義、ユニメートが残したもの

国産初の産業用ロボットとして川崎ユニメートが誕生してから半世紀。自動車産業から普及が始まった産業用ロボットは、その後、電子・電気産業などほかの分野でも利用が拡大し、日本のものづくりを支えてきました。

また、自動化により生産性を向上しただけでなく、労働者をスポット溶接や塗装のような過酷な業務から開放するという役割も果たしました。いわゆる3Kと呼ばれる、きつい、汚い、危険な業務や、単純な繰り返し作業などはロボットに任せ、人間はより高度な判断が必要な業務に集中することができます。

川崎ユニメートの誕生から50年を迎えようとする現代、ロボットの利用範囲はさらに広がりつつあります。これまでは工場内が中心でしたが、商業施設や一般家庭などでの利用も増えつつあります。

ロボットは昔から「人間を助ける存在」でした。これは、現在も変わりません。例えば2015年に川崎重工が発表した双腕スカラロボット「duAro」のコンセプトは、「人と協働できるロボット」。 人に危害を加えるリスクを減らし、人が両腕を使って行う作業を、私たちのすぐ隣で実現することができます。ユニメートが工場の労働者を過酷な仕事から解放したように、川崎重工のロボットは今も、そしてこれからも社会のニーズに応えて進化し、人間を助ける存在であり続けるでしょう。